Resarch & Shooting Note
馬 静怡 制作ノート 2025年度前期
April 2025
一、撮影対象と素材(Motifs & Materials)
今月は花卉と人物を主な撮影対象とした。植物園にて様々な種類の花を撮影し、室内では人物のポートレートを中心に素材を収集した。いずれの素材も、その質感やフォルムの特徴を活かして、視覚的な重なりや感覚的な対比を狙った。
二、撮影技法と手法(Technique & Method)
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撮影方法:自然光を中心とした手持ち撮影
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使用機材:iPhone、RICOH GR IIIx
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撮影環境・条件:
- 屋外(植物園):晴天、午前〜午後にかけての自然光下での撮影
- 室内:窓からの自然光を活かしたライティング -
編集手法:Adobe Photoshopを用いて複数の素材をレイヤーで重ね合わせた。マスク処理を使って輪郭を馴染ませたり、透明度の調整によって素材同士の境界を曖昧にし、花と人物の間に感覚的なつながりを持たせた。
三、作品分析と視覚的メモ(Visual Notes)
画像ファイル名:
この作品は、赤いユリの花弁と人物の横顔を重ね合わせたものである。花の流れるような形状が人物の頬の曲線と呼応するように配置されており、両者の境界はソフトなマスクでぼかして融合している。花の鮮やかな赤と肌のナチュラルなトーンが混ざり合い、生命感と官能性の共存を試みた。
四、制作上の課題と改善点(Issues & Reflections)
・人物と花の素材を合成する際、光の向きや強さの違いによって違和感が生じることがあった。
・素材選びの段階でより統一感のある色調や構図を意識する必要があると感じた。
・同一画面内での質感の調整に時間がかかるため、Photoshopのブラシやフィルターの使い方をさらに習得する必要がある。
五、次の展開と試み(Next Steps)
・来月は植物や人物以外の素材(布、金属、水など)も試し、異なる質感の融合を探る予定。
・より抽象的な合成イメージに挑戦し、見る人の感覚に直接訴えかけるようなビジュアル表現を目指したい。
・編集段階での「透明感」や「空気感」の演出に重点を置き、画面全体の呼吸のようなリズムを生み出すことを模索する。

15 .May 2025
一 書籍の概要
今週は、花を主題とした写真集として、荒木経惟の『花曲』と蜷川実花の『Self-image』(花のシリーズ)を読んだ。 『花曲』では、花の開花から枯れ、腐敗していく過程が丁寧に捉えられており、湿潤や裂け目、黒ずみといった質感を強調することで、花がまるで皮膚や臓器のように感じられる。写真は死や性愛、孤独と結びつき、どこか私的で情緒的な視線が貫かれている。 一方、『Self-image』に登場する蜷川実花の花は、極彩色で構成され、鮮烈な色彩と密度の高い構図によって、花そのものが感情や存在を主張しているように感じられる。ここでは、花は受動的な存在ではなく、主体的かつ能動的に「感じる身体」の象徴として機能している。
二 自身の感想
荒木の花には、静かで湿った官能性があり、感情の終わりや時間の儚さが染みついている。一方で蜷川の花は、生命力とエネルギーに満ちており、どちらも異なる形で“セクシー”を表現している。 私はこれまで、湿潤、柔らかさ、皺といった感触に注目してきたが、蜷川の色彩と言葉を選ばないビジュアルの力強さにも魅力を感じ始めている。二人の表現を比較することで、「性的であること」は抑制的なものにも、開放的なものにもなり得ると再認識し、今後の制作においてその中間にある揺らぎを探っていきたいと感じた。
三 研究への示唆
この二冊の作品から得た最も大きな示唆は、身体を直接写さなくても、自然物の質感や変化を通じて“身体の感覚”を表現できるという点である。 • 画面構成について: 荒木のように余白と時間性を強調する構図、蜷川のように密度と色彩を最大限に押し出す構図、どちらも試したい。色味においては、今後あえて高彩度の部分を導入し、官能性の多様な側面を検討する。 • 意味構造について: 花や果実は、文化的・神話的文脈を背負う“身体の代理”として、ジェンダーの枠を超えた表現が可能であると実感した。特に、「見る」ではなく「感じる」ことを目的とした視覚表現において、これら自然物が持つ有機性は極めて有効だと再確認した。
25.may 2025
一、撮影対象および素材
本週は植物園の温室および付設の小型水族館にて撮影を実施した。撮影対象は以下の通りである。
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花類植物:ユリ(Lilium spp.)、ラン(Orchidaceae)、多肉植物(Succulents)、エアプランツ(Tillandsia spp.)
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海洋および両生類生物:海藻(Marine algae)、クラゲ(Jellyfish)、ヤモリ(Gecko)等
二、撮影手法および技術的詳細
使用機材:RICOH GR III
撮影環境:温室内の自然光および人工光、水族館内のガラスによる反射光を利用
撮影手法:マクロ撮影により、被写体の細部、特にテクスチャー、膜面、接触点などのディテールを強調
画像処理:彩度およびコントラストを調整し、湿潤感、肉感、滑らかさの視覚的表現を強化した
三、創作における考察および意図
本撮影を通じて、自然物である植物および海洋生物を介し、「身体感覚の移行」および「視点の流動化」という概念を追求した。
具体的には、従来の身体の器官・非器官、生物・感覚という二項対立の境界を曖昧化し、身体経験が性器や性別構造に依存しない新たな感知次元を模索している。
撮影した対象のテクスチャー、皺、柔軟性、圧力感などの触覚的特徴を通じ、身体の非言語的な感覚経験の表象を目指した。
画像ファイル名:

10.June 2025
一、撮影対象および素材
今週は自宅で、スイカとモモの2種類の果物を撮影した。どちらも表面や断面に湿り気や柔らかさ、裂けやすさがあり、皮膚や汁、身体の開口部を連想させる。特に熟れていたり、切り口がある状態だと、甘さと腐敗の境目のような質感が出やすいと感じた。
二、撮影手法および技術的詳細
使用機材:RICOH GR III
撮影環境:自宅室内、窓際の自然光、背景に白紙や布を使用
撮影方法:マクロモードで近距離から、果皮・果肉・裂け目・果汁などを撮影
編集処理:明るさと色味を少し調整し、素材の質感をなるべくそのまま残した。過剰な加工はしていない。
三、創作における考察および意図
今回は、果物が裂ける・押される・液体がにじむ瞬間を記録することを中心にした。そういった状態の中に、触覚や身体的な感覚につながる要素があると思ったから。
スイカの赤い果肉や果汁は、内部構造や血を思わせるし、モモの毛のある皮や柔らかく崩れた部分は肌のように見えることもある。特定の身体部位を表現したいわけではなくて、ちょっとエロティックだけどはっきり言葉にできない感覚を残すことを目指した。
画像ファイル名:

20.June 2025
一、撮影対象および素材
今週は、先週とは異なる色調の果物や野菜を撮影した。特に、表面が腐敗・変質し始めた部分を中心に記録を行った。観察の焦点は、果皮の変色、斑点、皺、そしてカビのような質感などの細部に置いた。
腐敗した果実には、新鮮さや美しさとは異なる時間の感覚があり、それは身体の老化や終わりのメタファーのように感じられた。
また、野菜の表面は乾燥や筋、硬さなど、果物とは異なるテクスチャーを持っており、それが直接的ではないものの、身体構造を連想させる質感を持っていた。
二、撮影手法および技術的詳細
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使用機材: RICOH GR III
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撮影環境: 自宅室内、主に午前中の自然光を使用
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撮影方法: マクロモードを使用し、腐敗部分、濁った色合い、表面の質感などに焦点を当てて撮影
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編集処理: 明るさと色味をやや抑え、湿度や陰影のある画面を意識して調整した
三、創作における考察および意図
先週は「果実=皮膚」という感覚に注目していたが、今週はそれよりも身体の変化や崩れの過程に意識が向いた。老化、裂け、乾燥といった状態を通して、身体が時間とともに変容していく様子を記録したいと思った。
特に腐敗した果皮は、生と死、甘さと嫌悪感の境界を曖昧にし、性的というよりも崩壊寸前の身体や感覚の混乱を想起させた。
今回の撮影で感じたのは、写真は必ずしも“美しい”や“エロティック”である必要はなく、不安定さ
や曖昧さ、コントロールのきかなさもまた、身体表現の一部になり得るということだった。
画像ファイル名:

15.September 2025
制作ノート
今週、指導教員の推薦により、サイモン・シャーマ著『風景と記憶』を読んだ。
本書の中心的論点は、風景は単なる自然現象ではなく、人類の歴史的記憶や神話、宗教的信仰、文化的想像力の重層によって形成されるものである、という点にある。
具体例として、富士山は単なる地理的存在に留まらず、宗教的聖地としての信仰や、北斎・広重の浮世絵に繰り返し描かれた視覚的記憶を通じて、日本における象徴的風景としての位置を確立してきた。
周囲の山々と比較すると、富士山が「国民的風景」として認知されるのは、自然と文化・歴史の意味が重層的に重なった結果である。
この考え方は、私の制作活動にも示唆を与えている。
私の作品では、花や果実などの自然物は単なる素材ではなく、身体や記憶を象徴する存在として扱っている。
シャーマの議論は、風景を「自然+文化」として理解する方法を示しており、私の制作を理論的に支える基盤として参考になる。
22.September 2025
「ポルノグラフィとメディア史:古代ギリシャからデジタル時代における視覚文化の変遷」
はじめに
「ポルノ」という概念は、現代社会においてほぼ普遍的な文化現象となっている。しかし、それは古代から単一の観念として存在していたわけではなく、社会、宗教、権力、メディアの変化に応じて絶えず生成され、再構築されてきた。ポルノを研究する意義は、単に道徳や検閲の議論にとどまらず、人間が身体、欲望、視覚文化に対してどのような複雑な態度を持ってきたかを理解することにある。古代ギリシャの愛の神の像から、中世の性禁欲主義、ルネサンス期の裸体芸術、近代の大衆メディアにおける性消費、そして現代のデジタルプラットフォームやAI生成画像の拡散に至るまで、ポルノは歴史的張力の中に位置し、抑圧されると同時に生産されてきた。
この過程において、メディアは重要な役割を果たしてきた。石刻、壁画、彫刻、写本、油絵、版画、写真、映画、インターネット…メディアが変革するたびに、「エロティックイメージ」の制作、流通、消費の方法は再構築され、「ポルノ」という言葉の意味も絶えず変化してきた。したがって、「ポルノ」が単なる画像コンテンツではないとすれば、それはメディア史、権力史、身体史が交錯した産物であると言える。
本論文の目的は、ポルノの歴史的形成過程をたどり、とりわけ異なる伝播メディアとの関係を明らかにすることである。この整理を通じて、「ポルノ」という言葉が現代社会でなぜこれほど複雑な意味を持つのかを理解し、特に視覚中心主義や性別凝視への過度な依存という限界を見出すことができる。同時に、この歴史的回顧は現代の映像実践に理論的背景を提供し、従来の枠組みを超えた、あいまいで非性別的なエロティック美学の探求の可能性を示す。
古代ギリシャとエロスのイメージの起源(紀元前8世紀—紀元前4世紀)
古代ギリシャ文化において、エロスは単なる性愛の象徴ではなく、宇宙秩序と創造力の一部でもあった。最古の記録として『ヘシオドスの神統記』(紀元前700年頃)では、エロスは混沌(Chaos)や大地(Gaia)と同等に重要な原初の存在として描かれ、欲望と引力が宇宙生成の根本的な力であることを示している。この神話叙事は、後の西洋における「性」と「生命力」の想像の基盤となった。
視覚表現において、古代ギリシャの芸術は「エロティシズム」を恥と見なさなかった。紀元前6世紀の黒絵・赤絵陶器には、宴会や恋愛、同性関係の場面が頻繁に描かれている。これらのイメージは秘密の「ポルノ」ではなく、日常生活や社会儀礼に溶け込んでいた。例えば、陶器に描かれた男性と少年の関係(ペデラストリー)は、欲望の表現であると同時に教育、社会的地位、権力関係とも密接に結びついていた。つまり、古代ギリシャではエロティシズムは美学であると同時に社会的であった。
彫刻は最も早い「裸体芸術」のメディアとなった。紀元前5世紀の古典期には、男性裸体は理想美の象徴とされ、ポリュクレイトスの『槍を持つ者(ドリュフォロス)』は比例と調和を重視し、「超越的」なエロティシズムを体現した。女性裸体は比較的少なく、プラクシテレスの『クニドスのアフロディーテ』(紀元前4世紀)が初めて正面から女性全裸を提示した。この作品は、西洋美術史における「女性裸体像」の伝統の始まりとなった。
こうして、古代ギリシャでは「エロティックイメージ」はポルノと完全には同一視されず、美、身体、欲望、神性に関する文化的価値を担っていた。しかし、この公開された社会的エロティシズムが後の西洋視覚文化の根源となった。
ローマ時代:日常生活におけるエロティックイメージの普及(紀元前1世紀—4世紀)
ギリシャ人がエロティシズムに理想主義的哲学・美学の次元を与えたなら、ローマ人はそれを「世俗化」・「日常化」した。ポンペイやヘルクラネウムの壁画や出土品が豊富な証拠を提供している。
紀元1世紀から紀元79年のヴェスヴィオ火山噴火前まで、ポンペイの私邸や浴場には性行為を描いた壁画やモザイクが頻繁に見られた。これらのイメージは隠されることなく、家庭装飾や公共空間(浴場の更衣室や酒場の壁)に堂々と存在し、娯楽や挑発のみならず、社会階層、富、ライフスタイルを示す役割も果たした。
ローマはさらに「メディア化された」エロティシズム伝播の形態も発展させた。小型彫刻、浮彫、護符、日用品などである。例えば、男性生殖器形状の護符(ファスキヌム)は邪気払いと同時に繁殖・力の象徴であった。このように、ローマ文化では性と生活は不可分であった。
また、ローマでは「ポルノ出版物」の原型も発明された。ポンペイで発見された小型エロティック彫刻や携帯可能な愛神像は、個人消費向けエロティック品と見なせる。つまり、エロティシズムは初めて「複製可能・流通可能なメディア」と結びつき、後のポルノ印刷物の伏線となった。
中世:性と身体の抑圧と神学的規律(5—15世紀)
ローマ帝国の衰退とキリスト教の台頭により、ヨーロッパは全く異なる文化段階に入った。中世のキリスト教神学における性と身体の態度は、古代ギリシャ・ローマの開放性と鮮明に対照をなす。
アウグスティヌス(354–430)の『告白』では、性欲は「原罪」の結果とされる。アダムとイヴの堕落以降、人間の身体は欲望に支配され、結婚内での性行為でさえ罪の痕跡を伴う。この神学思想が中世全体の基調を定め、性は抑圧され、身体は疑われ、欲望は厳格に規律されるべきものとされた。
視覚文化においても、この態度は表れている。中世の宗教美術は聖母、聖人、救済の場面を中心とし、ほとんどエロティシズムや肉体の直接的表現を避けた。裸体は理想美ではなく、恥や堕落、地獄と結びつけられた。ゴシック大聖堂の壁画や彫刻では、罰を受ける裸の魂が描かれ、人々に肉欲に溺れないよう警告した。
しかし、禁欲はエロティシズムの消滅を意味しない。実際、中世にも「地下の」エロティック文化が存在した。12—13世紀、騎士文学や宮廷恋愛詩の流行により、宗教禁欲に対抗する「浪漫的エロティシズム」が現れた。トルバドゥールは理想化された女性を讃え、欲望の高貴さと苦悩を強調した。これら文学作品は裸のポルノではないが、情緒的エロティシズムの文化的出口となった。
伝播メディアとしては、手写本が主流であった。多くの宗教文書は性描写を排斥したが、一部の挿絵手稿には性的な隠喩が含まれていた。学界では、周縁部(marginalia)に僧侶が下品な場面や裸体を密かに描いていた例が発見されている。これは、最も厳格な禁欲主義時代でも、エロティックイメージは「周辺的・風刺的・隠密的」な形で存続していたことを示す。
中世の意義は、エロティシズムを消滅させるのではなく、地下・周辺に押しやり、「罪」と「恥」のラベルを付与した点にある。この態度はルネサンスや啓蒙時代の反動となり、ポルノが抑圧される文化対象としての伏線となった。
ルネサンスと印刷術:エロティシズムの復帰と伝播(15—16世紀)
15世紀のヨーロッパは文化的大転換を迎えた。イタリア・ルネサンスは古典の芸術を再発見するとともに、身体と欲望の再評価を促した。エロティックイメージは禁忌ではなく、徐々に芸術・社会の中心に戻った。
裸体芸術の復興が顕著である。ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』(1486)は古典神話に呼応し、女性裸体を優雅に描く。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂『最後の審判』(1508–1512)は男性裸体を力と激情の表現に使用した。これら作品は宗教・神話の外衣をまとっているが、エロティシズムを含む視覚効果は無視できない。
印刷術(1440年頃、グーテンベルク)により、版画や挿絵付き書籍が大量複製・流通可能となった。16世紀にはイタリア・ドイツでエロティック版画が制作され、「イアモディ(I Modi、1524)」などが代表作となった。宗教当局により禁じられたが、私的流通でヨーロッパ初期のエロティック出版を代表した。
印刷ポルノの出現は画期的である:
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メディアの変革:エロティシズムが初めて大規模に複製可能なイメージ形式に入った。
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社会の二重態度:公式は禁止、個人は追求。
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消費の萌芽:版画は欲望消費向けに生産された文化商品となった。
宗教改革・反宗教改革の闘争もあり、エロティシズムは意識形態の焦点となった。ルネサンスは古典美学の再生であると同時に、「メディア現象としてのエロティシズム」の出発点であった。
図1:サンドロ・ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』、1486年、出典:ウフィツィ美術館公式サイト、https://www.uffizi.it/、アクセス日:2025年9月25日。
啓蒙時代と18世紀:ポルノの思想化と政治化
17—18世紀、啓蒙思想の拡大により、性と身体の問題は社会・政治の議題に再び登場した。フランスではサド侯爵の作品が代表的で、性行為を描きつつ宗教・道徳・権力への批判としてエロティシズムを用いた。英国・フランスの版画や風刺漫画は貴族・聖職者の性スキャンダルを暴露し、公共議論や社会批判にポルノを導入した。
日本では江戸時代の浮世絵春画(17—19世紀)が木版印刷で大規模生産され、男女性交、同性愛、集団性交、動物性交なども描かれた。対象は武士・商人・農民で、エロティシズムは生活の一部とみなされ、教育・婚姻指導・護符としても用いられた。ヨーロッパの宗教的抑圧と対照的である。
啓蒙・18世紀の意義は、ポルノとエロティシズムが禁忌や罪にとどまらず、文化・思想・政治闘争の一部となった点にある。印刷・版画などのメディアは成熟し、ポルノは初めて真正の大衆文化的地位を得た。
20世紀の大衆ポルノ産業とメディア拡散
20世紀、大衆メディアの発展により、ポルノはかつてない産業化を遂げた。1950年代、米国の『プレイボーイ』(1953創刊)は裸写真・エロティック文学・ライフスタイルを結合し、中産階級男性を対象とした。1970年代の「ポルノ映画黄金期」では、映画が新たなメディアとして動的映像による直接的な視覚体験を提供した。日本でも「ピンク映画」やAV産業が発展し、制作・配信・家庭消費の産業チェーンが形成された。1980年代にはVHS普及により家庭視聴が一般化し、消費の私的化が顕著となった。
21世紀:インターネットとデジタルポルノ
21世紀、インターネットによりポルノの伝播方式は根本的に変化した。動画サイト、SNS、UGCプラットフォームにより、去中心化・迅速伝播が可能となった。OnlyFansなどでは創作者と消費者が直接結びつき、個人制作のエロティックコンテンツは迅速に経済的報酬を得ることができる。
さらにデジタル技術やAIの応用により、画像生成やVR体験が可能となり、制作主体や倫理・法・社会規範の境界を変化させた。デジタルメディアの台頭は、ポルノが単なる身体再現ではなく、技術・権力・文化の交錯を反映するメディア実験場であることを示す。
学術的視点では、性行為そのものではなく、ポルノとメディアの関係に注目が向けられる。ポルノは社会権力、文化規範、ジェンダー関係、メディア進化を理解する重要な切り口となり、本研究の初衷に呼応している。
結論:歴史的批判から新しい身体経験へ
総じて、「ポルノ」の歴史はメディア史・社会史・身体経験史が交錯した産物である。古代ギリシャのエロスから、ローマの日常的エロティックイメージ、中世の宗教的抑圧、ルネサンス・印刷術による出版、19世紀の写真・映画、20—21世紀のインターネット・デジタルポルノまで、メディア革新のたびにポルノの意味と可視性は再構築されてきた。
歴史的研究は、従来の視覚中心主義やジェンダー凝視が長くポルノ制作・消費を支配してきたことを示す。しかし、現代映像創作はこの枠組みを突破する機会を持つ。あいまいで非性別的、触覚的なエロティシズム表現の探求により、新しい美学的方向性——すなわち「色気」の実践——が提示できる。
『風景と記憶』が強調するように、風景は歴史と記憶を宿す。
参考文献
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Augustine. (354–430). Confessions.
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Bataille, G. (1986). Erotism: Death and Sensuality. San Francisco: City Lights Books.
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Mulvey, L. (1975). Visual pleasure and narrative cinema. Screen, 16(3), 6–18.
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Sade, D. A. F. (1740–1814). 120 Days of Sodom.
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Schama, S. (1995). Landscape and Memory. New York: Alfred A. Knopf.

October 6, 2025
一、撮影対象および素材
今週は人体と植物をテーマに撮影を行った。
モデルには特別なポーズを取らせず、植物の中で自然に動いてもらった。
肌と葉が触れ合う瞬間の湿度・温度・質感に注目し、その関係を記録した。
植物は背景ではなく、生命と欲の気配を持つ存在として、身体と並ぶもう一つの主題となった。
二、撮影手法および技術的詳細
使用機材:Sony α7C II
撮影環境:室内の自然光と、植物の近くの屋外空間
撮影方法:大きく絞りを開き、浅い被写界深度で肌と植物の境界をぼかした。
編集では彩度とコントラストを下げ、湿度と柔らかい陰影を残した。
また、大きめの構図を入れ、全体にリズムと呼吸感を作った。
三、創作の考察と意図
身体の撮影を通して、植物が持つ色気や感覚的な存在感を探りたいと考えた。
それは性的な表現ではなく、触覚や時間を通して現れる生命の気配である。
身体と植物が共に映ることで、人と自然の境界が一時的に曖昧になり、生命そのものの感覚がよりはっきりと現れることを目指した。
画像ファイル名:

October 20, 2025
一、撮影対象および素材
今週は、熱帯植物の表皮と構造を中心に撮影を行った。
強い自然光のもとで観察すると、植物の表面には皮膚のような皺や分泌物の質感が現れる。特に、褐色の葉鞘や茎の部分には湿り気と油分の光沢があり、植物と動物のあいだにあるような触覚的な印象を与える。
光を受けた植物の表皮は、温度や時間の層を映し出し、日焼けした肌や、再生途中の組織のようにも見える。
このような表面の細部を通して、植物が「身体」として存在するもう一つのあり方を捉えたいと考えた。
二、撮影手法および技術的詳細
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使用機材: Sony α7C II
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撮影環境: 温室および屋外の自然光(正午〜午後)
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撮影方法: マクロ撮影と中距離撮影を組み合わせ、植物表皮の裂け目や折れ目、光の反射面に焦点を合わせた
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編集処理: 彩度とシャープネスをやや抑え、高光の質感と光の呼吸感を残すことで、表面のリアルさと抽象性の両方を表現した
三、創作における考察および意図
今回の撮影は、「自然物と身体経験」をテーマに継続して行った。
熱帯植物の表皮には強い生命力としなやかさがあり、その皺や色の変化は皮膚に近いが、同時に人間の身体を超えた存在でもある。
私は植物を「非人の身体」として捉え、そこに触覚と視覚の交錯を見出したいと考えた。
見る対象としての植物ではなく、呼吸し、存在する生命体としての植物。
この撮影を通して、身体感覚と自然感覚のあいだの曖昧な領域を再び意識することができた。
画像ファイル名:

October 30, 2025
一、撮影対象および素材
今週も熱帯植物園で撮影を行い、植物の根や茎に焦点を当てた。
根や茎の形には明確な構造があり、ときに人体の内部組織を思わせる。
特に断面や湿った部分では、筋や皮下のような質感が見られた。
二、撮影手法および技術的詳細
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使用機材: RICOH GR III
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撮影環境: 温室内の自然光、一部は陰影のある環境
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撮影方法: 根や茎の断面、繊維、表面の質感を近距離で撮影
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編集処理: 明るさとコントラストをわずかに調整し、湿度と陰影の層を残した
三、創作における考察および意図
今回は、植物が持つ「身体性」の構造的な側面を観察した。
根の伸び方や曲がり方、再生の形には、身体の呼吸や流れを感じる。
植物の根や茎は生長の器官であると同時に、「非人の身体」の隠喩でもある。
自然と身体のあいだにあるつながりを、今後も探っていきたい。
画像ファイル名:

November 13, 2025
一、撮影対象および素材
今週も熱帯植物園で撮影を行ったが、今回は前回と異なり、鮮やかな色彩の植物に焦点を当てた。
植物の葉や茎、根の形態には構造的な特徴があり、ときに人体の内部組織や血管のようなイメージを喚起する。
特に色の濃い部分や光が当たる面では、表面の質感や陰影がより強調され、生き物としての存在感を感じさせた。
二、撮影手法および技術的詳細
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使用機材:RICOH GR III
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撮影環境:温室内の自然光、さらに異なる方向からの光の変化を利用
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撮影方法:根・茎・葉の断面や表面、繊維の質感を近距離で撮影
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編集処理:明るさ・コントラストを調整しつつ、光の鮮やかさや色彩の層を残す
三、創作における考察および意図
今回は、植物が持つ「身体性」と色彩による表現を観察した。
根や茎、葉の伸び方や曲がり方には、生命の流れや呼吸のような感覚が宿る。
鮮やかな色彩と光の組み合わせにより、植物の存在がより身体的に、かつ「非人の身体」としての印象を強める。
自然と身体のあいだのつながり、そして色彩や光がもたらす身体性の印象を、今後も探求していきたい。
画像ファイル名:

支配的視覚と触覚化視覚:身体経験在現代エロティック写真における役割 ― 荒木経惟作品を例に
キーワード(Keywords):
身体経験(Bodily Experience)、支配的視覚(Dominant Gaze)、触覚化視覚(Haptic Visuality)、非視覚的エロティシズム(Non-visual Eroticism)、接近感(Proximity/Intimate Engagement)、メディアと歴史(Media and Historical Context)
I. はじめに
現代のエロティック写真において、身体の提示は単なる視覚表現にとどまらず、観者の身体的経験にも影響を与える。荒木経惟の写真作品を例に挙げると、近接で撮影された女性の身体や私的空間に直面する際、観者は緊張や圧迫感を抱くことがある。この体験は単なる心理的反応ではなく、視覚・触覚・空間関係を通じて生じる身体経験(bodily experience)である(Bruno, 2002)。
身体経験とは、観者が自身の感覚を通じて直接的にイメージを体験するプロセスを指し、視覚的判断や触覚、心理的緊張や快適さを含む。荒木作品では、観者の身体感覚がイメージ構造に引き込まれ、特定の体験パターンを形成する。本文は荒木経惟作品を出発点として、**支配的視覚(dominant gaze)が身体経験に与える影響を分析し、エロティックイメージの歴史・メディア脈絡と結びつけ、さらに触覚化視覚(haptic visuality)の理論と実践の意義を探る(Mulvey, 1975; Berger, 1972)。
II. 荒木経惟と支配的視覚
A. 身体経験の役割
本研究における身体経験とは、観者が自身の感覚を通じてイメージを直接体験する過程を指し、視覚・触覚・空間感覚および心理的緊張や快適さを含む(Bruno, 2002)。荒木作品では、近接撮影された女性の身体、部分的なクローズアップ、私的空間の構図などによって、観者の身体感覚がイメージ構造に巻き込まれる。観者は視覚的距離を保つことができず、身体の緊張や心理的圧迫が生じる。
B. 支配的視覚のメカニズム
Mulvey(1975)が提唱する**男性の視線理論(male gaze)**によれば、視覚文化は観者を権力的位置に置くことで、被写体を客体化する仕組みをもつ。荒木作品では、女性の身体の姿勢、光の配置、空間構造がこの凝視構造を強化しており、観者の身体経験が制御される。これが支配的視覚による身体経験への直接的影響である(Mulvey, 1975; Berger, 1972)。
C. メディアと社会文化的要因
荒木作品は主に小規模な写真集で出版され、私的なメディアが観者の参加感を高め、身体経験をより直接的にしている。戦後日本の写真産業の発展、女性の身体表象の社会化、そして文化におけるエロティシズムへの規範と許容が、観者の身体経験の特定のパターンを形成している(Paasonen, 2011)。したがって、支配的視覚は作品内部だけでなく、メディア形式や社会文化的背景によっても構造的に支えられている。
III. 身体経験の差異とメディア歴史
A. 一般的な概括
現代のエロティック写真において、観者の身体経験は視覚的戦略によって変化する。光の扱いや空間構図、撮影距離、あるいはぼかしなどを用いることで、観者の体験は比較的緩和され、緊張や圧迫感が軽減される。視覚的権力は依然として存在するが、その強度や形式の差異が観者の身体感覚に直接影響する。
B. 例示
たとえば、街頭や日常的な場面を撮影した作品では、やや距離を置いた構図や光の扱いにより、観者は一定の距離感を保ちつつ鑑賞できるため、身体経験が比較的快適になる。この快適感は相対的であり、観者は依然として視覚権力やメディア構造の影響を受けるが、その形式や強度が異なる。
C. 歴史的脈絡
現代の身体経験を理解するためには、エロティックイメージの歴史的変遷を考慮する必要がある。古代ギリシャでは裸体は美学的対象とされ、観者は身体感覚を通じて共鳴した。ローマ時代には日常的なエロティシズムが観者の身体経験を社会的権力下で導いた。中世では宗教的抑制が身体の自由な表現を制限した。現代日本の写真産業では、観者の経験は撮影メディア、社会文化、商業構造によって形成されている(Paasonen, 2011; Berger, 1972)。身体経験の差異は、視覚権力、メディア形式、歴史文化の相互作用の結果であり、単なる個人の心理的反応ではない。
IV. 触覚化視覚:理論と創作実践
A. 理論的枠組み
触覚化視覚(haptic visuality)は、観者が身体感覚を通じてイメージを体験することを重視し、視覚判断に依存しないことを強調する(Bruno, 2002)。主な原則は以下の通りである:
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非視覚的エロティシズム:質感や形態を通じて身体の存在を示唆し、性的特徴を直接的に表現しない。
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身体の在場だが不在:植物や根茎などの代替物で身体を表現する。
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接近体験:ぼかしや部分的クローズアップを通じて、観者が視覚的権力でイメージを支配できないようにし、身体経験を主体化する。
B. 創作実践
私の制作では、植物の根茎や熱帯植物の表皮を身体の代替物として撮影する。ぼかしや部分的クローズアップにより、観者は光、湿度、質感、圧力などを自身の身体感覚で体験する。視覚的凝視による支配が成立せず、身体経験が鑑賞の主体となり、視覚的支配から感覚的共鳴への転換が実現される(Paasonen, 2011)。
C. 荒木作品との比較
荒木経惟の作品では、女性の身体が近接した視点や私的空間の構図によって提示されるため、観者は身体的に凝視構造に巻き込まれ、緊張や圧迫感を感じることが多い。この場合、視覚権力が強く働き、観者の身体経験は制御される。一方、私の制作における触覚化視覚では、植物や根茎などの身体の代替物を用い、ぼかしや部分的なクローズアップによってイメージを提示する。その結果、観者の身体経験が主体となり、緊張や圧迫感は軽減され、感覚的な共鳴を伴う体験が生まれる。この比較から、支配的視覚は観者の身体経験を制御するのに対し、触覚化視覚は凝視の力を弱め、身体経験を鑑賞の中心に置くことが可能であることがわかる。
V. 結論
荒木経惟作品の分析を通して、身体経験、視覚権力、歴史・メディア脈絡の相互関係から以下の結論を導くことができる:
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身体経験の制御メカニズム:緊張や圧迫感は、支配的視覚とメディア、歴史文化構造の共同作用によって生じる(Mulvey, 1975; Bruno, 2002)。
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視覚権力と身体経験の関係:支配的視覚が強いほど身体経験は制御され、弱まると身体経験は快適または親密な相互作用の主体となる。
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触覚化視覚の意義:非視覚的提示、代替物、接近体験を通じ、観者の身体経験を鑑賞の中心に置き、凝視から感覚的共鳴への転換を可能にする(Paasonen, 2011)。
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研究価値:身体経験は分析の手段であるだけでなく、現代エロティック写真の理論と制作を結びつける中心的要素であり、シリーズ化研究の可能性を提供する。
荒木作品における支配的視覚と触覚化視覚の比較は、視覚権力が身体経験に与える影響を明らかにし、現代エロティック写真に対する新たな理解と創作の方向性を示す。
参考文献(References)
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Berger, John. Ways of Seeing. Penguin Books, 1972.
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Bruno, Giuliana. Atlas of Emotion: Journeys in Art, Architecture, and Film. Verso, 2002.
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Mulvey, Laura. “Visual Pleasure and Narrative Cinema.” Screen, vol. 16, no. 3, 1975, pp. 6‑18.
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Paasonen, Susanna. Carnal Resonance: Affect and Online Pornography. MIT Press, 2011.