Resarch & Shooting Note
馬 静怡 制作ノート 2026年度前期
Kiyo / April 15, 2025
一、撮影対象と素材
被写体はKiyo
室内空間で自然光を用いたポートレート撮影を行った。身体のラインや肌に落ちる光を意識しながら、静かな空気感を画面の中に残すことを試みた。
二、撮影方法と技術
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自然光を使用した手持ち撮影
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使用機材:Sony フルサイズミラーレスカメラ
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室内の窓光を中心に撮影
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Photoshopで色味やコントラストを微調整し、柔らかい質感を残した
三、作品分析と視覚的メモ(Visual Notes)
画像ファイル名
今回の撮影では、身体を説明的に見せるのではなく、感覚的な存在として捉えることを意識した。
特に、光が肌に触れる瞬間や身体の断片的な構図によって、静かで曖昧な空気感を作ろうと試みた。
撮影前に、身体や「見られること」について被写体と会話を行ったことで、Kiyo自身の表現欲求や「見られること」への意識が撮影にも自然に現れていたように感じる。
視線やポーズには意図的な演出性がありながらも、同時に自然な身体感覚や空気感が残っており、その曖昧なバランスが印象的だった。
四、課題と次の展開
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光の変化による色味の差をさらに調整したい
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身体と空間の距離感をもっと意識した構図を試したい
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光や構図による身体表現の可能性をさらに探っていきたい

Shashi / May 5, 2025
一、撮影対象と素材
被写体はShashi
室内空間で自然光を用いたポートレート撮影を行った。全体的に暗めの光環境の中で、身体の輪郭や肌に落ちる陰影を意識しながら撮影を進めた。
前回の撮影とは異なり、今回は撮影前に身体や性に関する会話は行っていない。
その一方で、Shashiは非常に自然な状態で身体をカメラに委ねており、ベッドに横たわる姿勢や視線には、「見られること」を受け入れる感覚が強く現れていた。
二、撮影方法と技術
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自然光を使用した手持ち撮影
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使用機材:Sony フルサイズミラーレスカメラ
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室内の弱い自然光を中心に撮影
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Photoshopで暗部のトーンや色味を微調整し、空気感を残した
三、作品分析と視覚的メモ(Visual Notes)
画像ファイル名
今回の撮影では、暗い室内光によって身体の存在感や視線の強さがより際立っていた。
特に、被写体が自然に身体を預ける姿勢や、カメラに向けられる静かな視線によって、「見る/見られる」という関係性が画面の中に強く現れていたように感じる。
また、Shashiには「凝視されること」を拒否する感覚よりも、むしろ受け入れるような空気があり、その意識が身体の開き方や空間の緊張感にも表れていた。
暗いトーンの中で、肌に触れるわずかな光や身体の断片的な構図が、静かで感覚的なイメージを生み出していた。
四、課題と次の展開
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暗い環境での肌の階調表現をさらに調整したい
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光量の少ない空間でのピントや粒子感を研究したい
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視線と身体の関係性を、より構図的に整理していきたい

9, may 2026
身体はどのように見られてしまうのか
身体を直接撮影し始めてから、私は次第に、自分が本当に関心を持っているのは「性」そのものではなく、身体がどのように見られ、どのように視覚構造の中で固定化されてしまうのか、という問題であることに気づいた。
写真史において、身体は長いあいだ「見られるもの」として存在してきた。
19世紀に写真技術が普及すると、エロティックなイメージは大量に複製・流通されるようになり、身体もまた消費される視覚的対象として扱われるようになった。裸体写真が「芸術」という形式を取っていたとしても、そこには依然として明確な見る/見られる関係が存在している。
20世紀の新即物主義(Neue Sachlichkeit)は、そうした身体表現に対して別の方法を提示した。
Edward Westonのような写真家は、極めてシャープなピント、冷静な構図、物質性を強調した描写によって、裸体から従来のエロティシズムを切り離そうとした。植物、果実、裸体は、彼らの作品の中で同じような彫刻的・物質的存在として扱われている。
こうした方法は、身体の「性化」をある程度弱める一方で、身体からある種の生命感までも取り除いてしまうように感じられた。
その後私は、静かで曖昧で、呼吸感のある身体写真であっても、そこには依然として固定化された「見る構造」が存在している場合があることに気づいた。
身体は強く露出されていなくても、なお「見られる対象」として画面の中に存在している。
そこから私は、自分が本当にやりたいことは単に裸体を撮影することではなく、身体がどのように視覚構造の中で定義されてしまうのか、そしてそれとは異なる身体の提示方法が存在しうるのかを考えることなのだと、徐々に明確になっていった。
最近の撮影では、私は無意識に顔を避けるようになった。
顔が現れると、人物はすぐに具体性を持ち、「これはどんな人なのか」という読みへと視線が向かってしまうからだ。
それよりも私は、身体の断片によって生まれる感覚に関心がある。例えば、皮膚、境界、光の痕跡、あるいはすぐには認識できない曖昧な細部などである。
また私は、被写体に対して強い個人的感情を投影しているわけではないことにも気づいた。
私は身体を通して恋愛や関係性、欲望を語りたいのではなく、身体そのものが持つ生命の状態に関心を持っている。
撮影方法としては、遮蔽、ぼかし、不安定な境界を用いながら身体を扱うことを試みている。
身体そのものを明確に提示するよりも、曖昧さや遮られた状態の中で生まれる感覚を重視している。
また、低コントラストで曖昧な光を意識的に使用している。
強い光は身体の輪郭や性的特徴を強調し、身体を再び固定された「見られる対象」にしてしまうように感じるからだ。
一方で、ぼかしや遮蔽は、「身体を確認する視線」を、より触覚的な感覚へと変化させる。
こうした感覚は、以前行っていた植物の撮影経験ともつながっている。
私にとって植物は単なる静物ではなく、既存の視覚構造を一時的に迂回するための媒介でもあった。
人間の身体とは異なり、植物はすぐに性別や欲望、人格を与えられることはない。
しかし同時に、湿度、裂け目、膨張、脆さといった、身体感覚に近い特徴を持っている。
だからこそ私は、身体の「性化」は身体そのものに由来するのではなく、視覚構造が身体に作用することで生まれているのではないかと考えるようになった。
そのため、植物から身体への移行は、私にとってテーマの変更ではなく、むしろ徐々に身体へ接近していくプロセスである。
以前は植物を通して間接的に身体へ触れていたが、現在は身体そのものへ再び向き合いながら、身体が固定化された見られ方から離れ、より感覚的な存在として提示できる可能性を探っている。
私が本当に関心を持っているのは、「性を表現すること」ではない。
また、身体から完全に性を排除したいわけでもない。
私は、身体を単なる「見られる対象」としてではなく、温度、湿度、呼吸、生命感を持ちながらも、完全には定義も支配もできない「感知される経験」として存在させたいと考えている。